虫と自由

ふと、自由について書きたくなった。しかし、自由についてちゃんと論じるのはハードルが高い。この概念は、アメリカの国是だったり、フランスの国是だったり、リベラルの語源だったりする。政治哲学の主要概念である。なので、適当に書く。
結論から言うと、正しい自由とは「虫のようなあり方」だと思う。とりあえず、手元の国語辞典を引いてみよう(日本人だからfreedomやlibertyのことはわからない)。そして、持論に都合のいい部分を引用しよう。

じゆう【自由】
他からの強制・拘束・支配などを受けないで,自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。(後略)
大辞林 第三版

「意志や本性」と書いてあるが、たとえば「本性」を「本能」にしてみるとよくわからなくなる。常識的に考えて、意志と本能は相反する。本能に忠実な人間は意志を貫徹できない。だから、常識的に考えてはならない。人間ではなく虫を見てみよう。虫はいつでも本能に忠実だが、いつでも現実に向き合っている。虫において意志と本能の区別はない。
ところで、ある小説にこんなセリフがある。

「自分の運命をつかめない存在は虫です。
 私は虫が嫌いです。羽をもがれたようで見るに堪えません」
(中略)
「虫で居続けることに甘んじる人を人間だとは思いません」
魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」

ここでは虫と人間が対置されており、人間の方が自由とされているようだ(羽は自由の象徴)。虫のごとく本能に従うばかりではなく、人間には「自分の運命をつかむ力」が備わっている、ゆえに自由であると。一方、欲望のままセックスやドラッグに溺れることが自由であるという考え方も当然ある。
僕の感覚からすると、「自分の運命をつかめ」と迫られている状態は自由ではない。溺れて泳げない状態も自由とはいえない。虫のようなあり方────高い志を持たず、過剰に欲することもない────こそが、中道であり、正しく自由だと思う。そして、人間は複雑な虫にすぎないとも思う。