「Twitter民」という言葉が気持ち悪い(あるいは「民」考)

どうして気持ち悪いのか。
そもそも「〜民」というのはネットでよく使われるスラングで、「ゲハ民」「嫌儲民」のようなわかりやすい使い方もあれば「スマホ民」「たけのこ民」など風変わりな使い方もある。風変わりなのは別にいい。むしろ「Twitter民」は、一見普通の使い方に見えるからいやらしい。まあ、スラングの使い方に正誤なんてない。これは批判ではなく愚痴である。
「たけのこ民」などは、国民になぞらえれば理解しやすい。日本の民でありつつ中国の民であることができないように、たけのこ民でありつつきのこ民であることはできない。本来、民とはそういうものである。Twitterユーザーでありつつ2ちゃんねるユーザーであることはできる。これは気持ち悪さの一因だろう。しかし、それだけなら「ゲハ民」「嫌儲民」だって同じだ。
なぜ「ゲハ民」「嫌儲民」は許せて「Twitter民」は許せないのか。なにが違うのか。はっきりしている。ゲハや嫌儲は場であり、Twitterは場でない。
以下、民=構成員という前提で話を進める。2ちゃんねるの構造をいまさら振り返ってみよう。テーマごとに板があり、板ごとに空気があり、その中にスレがあり、スレごとに空気があり、その中に人がいる。しかも基本的に名無し。2ちゃんねるに書き込む者はまさしく、板・スレという場の構成員である。
Twitterはどうか。全ユーザーが全他者をフォローしているなら、全ユーザーがTwitterという場の構成員であると言えるかもしれない。ばかばかしい。好きな人をフォロー(そしてブロック)できるのがTwitterだ。ユーザーは散らばっている。存在するのはせいぜい、各ハッシュタグの民や各クライアントの民である。終わり。
まあ、スラングの使い方に正誤なんてない。これは批判ではなく愚痴である(念押し)。