「価値観をアップデート」という言葉の空虚さについて

前々からこの言い回しにはうんざりしていたが、Twitterが意味不明なクソアプデをした*1ので書かずにはいられなくなった。
僕は基本的に「社会は良くなっていく」と考える。まずインターネットのない生活に戻れるわけがないし、冷蔵庫やエアコンのない生活に戻れるわけもないし、現在の耐震基準をクリアしていない建物に住むのは不安だ。食にしたって、米も肉も野菜も品種改良が進んで美味しくなっている(はず)。僕は庶民だが、昔の貴族よりいい暮らしをしているに違いない。
テクノロジーだけではない。30年前にはブラック企業という言葉はなかった。50年前の日本にはハラスメントという概念はなかった。150年前の世界においては「戦争は悪」という考え方は常識ではなかった。思想も確実に進歩している。
では、創作物はどうか。たとえば漫画。ワンピースはドラゴンボールより優れているだろうか。そう感じる人もいるだろう。最近の才能ある漫画家は手塚治虫の漫画より優れた作品を描くだろうか。そう感じる人もいるだろう。岸本斉史先生の新作はナルトより面白いだろうか。知らない。たとえば音楽。最近の才能ある音楽家大バッハの作品より優れた楽曲を書くだろうか。極めてナンセンスな問いである。最近のロックバンドはビートルズより以下略。たとえば映画。略。たとえば小説。略。
創作物については、人それぞれ好みがあるとしか言いようがない。古いものが好きな人もいるし、新しいものが好きな人もいる。それはどう考えても優劣の問題ではないと思う。
西洋哲学は先人を批判することで発展してきた。アリストテレスプラトンを批判した。デカルトは全てを疑おうとした。デカルトを批判することで合理主義が発展し、やがて近代を批判するポストモダニズムが生まれた。では、東浩紀の著作はプラトンの著作より優れているのだろうか。別にそんなことはないと思う。
本題に入る。「価値観をアップデート」という言葉について。

アップデート【update】 の解説
コンピューターで、ソフトウエアの内容を、より新しいものに変更すること。不具合の修正や小規模の機能追加を目的として、ソフトウエアのメーカーや作成者が提供するソフトウエアの一部をインストールすることを指す。
出典:デジタル大辞泉(小学館)

こういう言い回しを好む人間は「価値観をインストール」みたいな言い回しも好むので、つまりそういうことだろう。彼らにとって、価値観とは「ソフトウエアのメーカーや作成者が提供する」ものでしかない。彼らにとって、価値観とは自らの人生の中で確立すべきものではない。今はこれが正しい、最近はあれがかっこいい、それが彼らの判断基準である。アップデートを批判するという発想はない。クソアプデという概念はない。彼らは戦時中の日本に生きていれば神風を信じただろうし、同時代のアメリカに生きていれば原爆投下を支持しただろう。

*1:リストに謎のヘッダ画像がつくようになった