「ジェンダークレーマー」という言葉の欠点、そしてネットメディアのくだらなさ

広く告げると書いて広告。この社会には広告があふれている。広告から逃れるのは難しい*1。だから広告関係者にはきちんと配慮する責務があると思う。広告がターゲットにとって不快なものになってしまえば、広告主も損するだろう*2。lose-loseである。よくない。

さて、最近とある「広告」が炎上した。

http://yaraon-blog.com/archives/215934(俗悪につき閲覧注意)
ここでは「フェミさん」が燃やしたということにされている。いつもの。

https://togetter.com/li/1868830
一方、こちらでは「ジェンダークレーマー」なる新語が見出しに使われている。まとめは神崎ゆき氏。

note.com

神崎氏は「ジェンダークレーマー」という新語を推している。「ツイフェミ」よりも「ジェンダークレーマー」の方がよくないですか?という。

ジェンダークレーマー」は、インターネットスラングの「ツイフェミ」という呼び方に代わるものと思っていただけると、まずはスッと頭に入ってくるかもしれません。ただし、ツイフェミという言葉との相違点もあります。
(中略)
フェミニストやツイフェミという「思想」や「属性」そのものを、ジェンダークレーマーという言葉は指しているわけではありません。あくまで、ジェンダークレームという「行為」に基づく呼び方です。
(中略)
どこまでいっても「ツイフェミ」はインターネットスラングです。あからさまなインターネットスラングを使いながら真面目な主張を展開しても(中略)どうしても「印象」という面で不利になります。

なるほど、精緻かつ巧妙なネーミングではある。しかし致命的な欠点がある。「フェミ」を「ジェンダークレーマー」に置き換えるのはいいかもしれない。だが、肝心の「ツイ」が抜け落ちている。
ツイッターこそが諸悪の根源だと僕は思う。ツイッターは情報をむやみに拡散する。フォロワーのフォロワー、つまり赤の他人、無関係な第三者に余計な情報が伝わる。伝わってしまう。世界の均衡が崩れる。

 

www.huffingtonpost.jp

月曜日なんたらの広告、それが社会にもたらす影響がいかなるものか。僕にはよくわからない。これについて論じる気はない。
「作品」と「広告」は違う、とは言っておきたい。エンタメ作品がターゲット外の人を不快にするのは普通だが、不快な広告は邪魔でしかない。
ただ、本件における不快感や違和感はどこからもたらされたのか。その点が引っ掛かる。日経新聞の読者が日経新聞にクレームを入れただけなら何の問題もないと思うが、そうではない。

ネット上では「女性はもちろん、娘を持つ男性も不安になる広告」「これが全国紙の全面広告になることでげんなりする人は少なくない」「女子高生を癒しの対象にし、それを日経が後押しすることへの違和感が大きい」などと批判が相次いでいる。

はい「ネット上」。コタツ記事にありがちなワード。要はツイッターとかに生息してるジェンダーに一家言ある人々が、たまたまバズって目に入った画像に対して「うーん、これはアウト」とかつぶやいてるという話。そんなことをいちいち記事にするハフポスト。やらおんと大差ない。

たまにはいいこと言うね。

 

ネットの炎上が現実社会を動かす昨今だけれど、やっぱりネット上の出来事は「リアル」じゃない。「リアル」とは、戦場に転がってる死体や肉片が放つ匂いのことだ。知らんけど。

*1:僕は広告ブロッカーを駆使してネット広告のほとんどを視界から排除しているが、物理的広告は難しい。特に仕事中だと広告音声を避けるのは不可能。ループ再生されると拷問

*2:不快になる人は客じゃない、とにかく話題になればいい、という考え方もある。そうかもしれない。下劣の極みだが

環境のために我々がやるべき本当のこと

政府が先週、首相官邸で脱炭素社会の実現に向けて有識者を招いた全国フォーラムを開いたという*1。具体的には、菅総理や小泉環境相が意識高い系のモデルやタレントとおしゃべりしたらしい*2有識者? まあいい。そこで世間知らずの若者が迷惑かつ的外れな提言をしたということで世間から叩かれた*3。「殴る」とまではいわないが、普通に迷惑なのでやめてほしい。
やめてほしい、というからには対案を出そうと思う。環境のために我々がやるべき本当のことは何か。このアカウントはいかなる政治的勢力とも繋がっていないので自由に書く。

1. 少子化対策をやめる
いうまでもなく、人間が生きているだけで環境に負荷がかかる。ましてや人口が増えれば環境破壊は加速する。幸い、我が国は少子化傾向である。少子化対策などやめて自然に任せたらいい。
そもそも、少子化の何が問題なのかよくわからない。バスケットもロックも選手がいなくなってオリンピックにゃ出られないからだろうか。「労働人口が減る」というが、労働力を確保するために子供を殖やそうなど野蛮だとしかいいようがない。

2. 生活保護を推進する
生活保護受給者は自家用車を持てない(普通は)。また、海外旅行にあまり行かない。お金がないので行けない。車や飛行機で環境を汚染する機会が少ないということだ。長距離移動は地球に優しくない。コロナ禍におけるロックダウンによる環境改善を見てほしい*4
もちろん、移動の自由も幸福追求権も基本的人権ではあるが、フルタイムで働いて手取り15万円とかだったら普通に生活保護の方がQOL高いと思う。パソコンもスマホも普通に持てる。クレカも2枚あるよ。うち*5

3. 消費税を上げる
生活保護といえば財源が必要だ。法人税所得税を上げるのもいいが、消費税を上げれば環境にも配慮できて一石二鳥である。いうまでもなく、大量生産大量消費は環境を壊す。消費を冷やさねばならない。「環境に配慮した商品」を消費していいことした気分になっている場合ではないだろう。まさしく焼け石に水
というか、税率は正直どうでもいい。それより、値札に税抜き価格をでっかく表示する詐欺を法律で禁止してほしい。

「価値観をアップデート」という言葉の空虚さについて

前々からこの言い回しにはうんざりしていたが、Twitterが意味不明なクソアプデをした*1ので書かずにはいられなくなった。
僕は基本的に「社会は良くなっていく」と考える。まずインターネットのない生活に戻れるわけがないし、冷蔵庫やエアコンのない生活に戻れるわけもないし、現在の耐震基準をクリアしていない建物に住むのは不安だ。食にしたって、米も肉も野菜も品種改良が進んで美味しくなっている(はず)。僕は庶民だが、昔の貴族よりいい暮らしをしているに違いない。
テクノロジーだけではない。30年前にはブラック企業という言葉はなかった。50年前の日本にはハラスメントという概念はなかった。150年前の世界においては「戦争は悪」という考え方は常識ではなかった。思想も確実に進歩している。
では、創作物はどうか。たとえば漫画。ワンピースはドラゴンボールより優れているだろうか。そう感じる人もいるだろう。最近の才能ある漫画家は手塚治虫の漫画より優れた作品を描くだろうか。そう感じる人もいるだろう。岸本斉史先生の新作はナルトより面白いだろうか。知らない。たとえば音楽。最近の才能ある音楽家大バッハの作品より優れた楽曲を書くだろうか。極めてナンセンスな問いである。最近のロックバンドはビートルズより以下略。たとえば映画。略。たとえば小説。略。
創作物については、人それぞれ好みがあるとしか言いようがない。古いものが好きな人もいるし、新しいものが好きな人もいる。それはどう考えても優劣の問題ではないと思う。
西洋哲学は先人を批判することで発展してきた。アリストテレスプラトンを批判した。デカルトは全てを疑おうとした。デカルトを批判することで合理主義が発展し、やがて近代を批判するポストモダニズムが生まれた。では、東浩紀の著作はプラトンの著作より優れているのだろうか。別にそんなことはないと思う。
本題に入る。「価値観をアップデート」という言葉について。

アップデート【update】 の解説
コンピューターで、ソフトウエアの内容を、より新しいものに変更すること。不具合の修正や小規模の機能追加を目的として、ソフトウエアのメーカーや作成者が提供するソフトウエアの一部をインストールすることを指す。
出典:デジタル大辞泉(小学館)

こういう言い回しを好む人間は「価値観をインストール」みたいな言い回しも好むので、つまりそういうことだろう。彼らにとって、価値観とは「ソフトウエアのメーカーや作成者が提供する」ものでしかない。彼らにとって、価値観とは自らの人生の中で確立すべきものではない。今はこれが正しい、最近はあれがかっこいい、それが彼らの判断基準である。アップデートを批判するという発想はない。クソアプデという概念はない。彼らは戦時中の日本に生きていれば神風を信じただろうし、同時代のアメリカに生きていれば原爆投下を支持しただろう。

*1:リストに謎のヘッダ画像がつくようになった

テレビとネット、スマホとPC、絶望と希望

note.mu

 

テレビは基本的に、タレントがやっていることを一般人が外側から見るものだ。ネットは、一般人が直接的に参加できることが一つの特徴だろう。

現在、YouTubeニコニコ動画の違いは、テレビとネットの違いであるように思う。ネット文化というサブカルチャーの中にもまた、テレビとネット(メインとサブ)がある。

かつてのYouTubeは、動画投稿サイトの代名詞でありつつ、単なる動画置き場であった。それが、ユーチューバーというタレントを生むシステムによって、新しいテレビになった。

テレビ。正確にいえば民放テレビだろうか。民放テレビは資本主義の世界である。全てはスポンサーに支配されている。

では、ネットはどうか。少なくともここはアフィブログではない。

 

僕は今、この文章をキーボードで入力している。デスクトップPCで。

スマートフォンの爆発的な普及に伴い、PCを持つ人が減ったそうだ。いまや、ネット体験の全てはAppleGoogleに支配されている。そして、PCを持たずキーボードを打てない若者はAppleGoogleに入社できない。ただ個人情報を搾取されるのみである。

いや、僕だってAppleGoogleには入社できない。僕に限らず、大半のPCユーザーは無理だろう。

しかし、少なくとも「wwwwwwwwwwwwwwwwwwww」という文字列を瞬時に打ち込むことはできる。心のままに

政治的正しさと力関係

「政治的正しさ」という概念がある。いわく、「ホモ」という呼び方は男性同性愛者への配慮が足りないから政治的に正しくない。一方、「ロリコン」はOK*1
男性同性愛者とロリコン、どこで差がついたのか。「政治的正しさ」は左派の概念である*2。左派は平等を志向するので、強者に厳しく、弱者に優しい*3。この社会には「異性愛>同性愛」という力関係があるので、同性愛者に対しては優しくせねばならない。左派的に考えて。だから「ホモ」という揶揄の色がついた言葉はNG。一方、「大人>子供」という力関係があり、「男>女」という力関係があるので、女の子にはかなり優しくせねばならない。もちろん、女の子を犯したいと思っているような成人男性に配慮する必要などない。だから「ロリコン」はOK。
でも、気になることが色々ある。政治家が「ホモ」という言葉を使うのはNGとして、そこらへんの腐女子淫夢厨が使うのは別にどうでもいいんじゃないか。政治的正しさとは「公人>私人」という力関係を前提するものであって、そこらへんの人にポリコレ棒を振り回すのは言論統制みたいなものじゃないのか。それから、ロリコンは異常者でいいとして、「健常者>異常者」という力関係は考慮しなくていいのか。それから、何が政治的に正しいかを決めるのは政治や倫理を熟知しているインテリの人たちであって、DQNの出る幕はない。また、育ちのいい上流階級の人(はてなに多い)は自然と政治的に正しい振る舞いができるが、育ちの悪い下流階級の人は軽率にホモとか言ってしまう。「高学歴>低学歴」「上流階級>下流階級」という力関係。これは考慮されないのか。それから、政治的正しさはアメリカから輸入されたアメリカ的なものであって、「アメリカ>日本」という力関係を考慮すべきではないのか。「ディズニー映画は政治的に正しい。それに比べて日本のコンテンツは…」みたいなことを言う日本人って名誉アメリカ人じゃないのか。
政治的正しさは用法・用量を守って正しく使うべきだと思います。

*1:市民レベルでは

*2:起源的には

*3:理念上は

「清潔感」志向と倫理

何が美しくて何が醜いかは人それぞれだが、最大公約数的なものはどうしても存在する(それを是認することがいわゆるルッキズムなのだろう)。本邦においてとりわけ強いのが「清潔感」というやつだ。清潔感のあるものは美しく、不潔感のあるものは醜い。同感である。しかし、これはよく考えるとペドフィリアの温床ではないか。子供の肌には清潔感があり、老人の肌には清潔感がない。いわゆるエイジズムの温床でもあるだろう。
確信した。いわゆるルッキズム、いわゆるエイジズム、ペドフィリア、これらはすべて「清潔感」志向と強く結びついている。これらを滅ぼしたいなら「清潔感」志向に反対するしかない。すなわち、清楚よりダーティー、萌えよりエロだ。

ルッキズムとかいう言葉

「外見主義」のことをルッキズムというらしい。ルッキズムは差別らしい。いや、人を外見で判断するのは当たり前だろう。そうでなければ何で判断するのか。言動?言動も外見ではないか。
容姿が醜いことは悲しいと思う。ただ、世の中には「ブス」や「デブ」が好きな人もいる。それが救いだ。大事なのは、美醜の多様性を認めることであって、美醜にこだわらないことではないだろう(そんなことは不可能である)。
「美形」「不細工」みたいな言葉は、美醜について静止的な構造を前提としている*1から、よくない。「かっこいい」「かわいい」「キモい」「ダサい」とかは、感想だから、まあ。ともかく、美醜は私的なものであって公的なものではない。ミスコンは滅べ。