テレビとネット、スマホとパソコン、絶望と希望

note.mu

 

テレビは基本的に、タレントがやっていることを普通の人が外側から見るものだ。
ネットは、普通の人が直接的に参加できることが一つの特徴だろう。

現在、YouTubeニコニコ動画の違いは、テレビ番組とネット文化の違いであるように思う。ネット文化というサブカルチャーの中にもまた、テレビとネット(メインとサブ)がある。
かつてのYouTubeは、動画投稿サイトの代名詞でありつつ、単なる動画置き場であった。それが、YouTuberというタレントを生むシステムによって、新しいテレビになった。

テレビ。正確にいえば民放テレビだろうか。
民放テレビは資本主義の世界である。全てはスポンサーに支配されている。
では、ネットはどうか。少なくともここはアフィブログではない。

僕は今、この文章をキーボードで入力している。デスクトップパソコンで。
スマートフォンの爆発的な普及に伴い、パソコンを持つ人が減ったそうだ。いまや、ネット体験はAppleGoogleに支配されている。そして、キーボードを打てない若者はAppleGoogleに入社できないだろう。
いや、僕だってAppleGoogleには入社できない。僕に限らず、大半のパソコンユーザーは。
しかし、少なくとも「wwwwwwwwwwwwwwwwwwww」という文字列を瞬時に打ち込むことはできる。心のままに

政治的正しさと力関係

「政治的正しさ」という概念がある。いわく、「ホモ」という呼び方は男性同性愛者への配慮が足りないから政治的に正しくない。一方、「ロリコン」はOK*1
男性同性愛者とロリコン、どこで差がついたのか。「政治的正しさ」は左派の概念である*2。左派は平等を志向するので、強者に厳しく、弱者に優しい(理念上は)。この社会には「異性愛>同性愛」という力関係があるので、同性愛者に対しては優しくせねばならない。左派的に考えて。だから「ホモ」という揶揄の色がついた言葉はNG。一方、「大人>子供」という力関係があり、「男>女」という力関係があるので、女の子にはかなり優しくせねばならない。もちろん、女の子を犯したいと思っているような成人男性に配慮する必要などない。だから「ロリコン」はOK。
でも、気になることが色々ある。政治家が「ホモ」という言葉を使うのはNGとして、そこらへんの腐女子淫夢厨が使うのは別にどうでもいいんじゃないか。政治的正しさとは「公人>私人」という力関係を前提するものであって、そこらへんの人にポリコレ棒を振り回すのは言論統制みたいなものじゃないのか。それから、ロリコンは異常者でいいとして、「健常者>異常者」という力関係は考慮しなくていいのか。それから、何が政治的に正しいかを決めるのは政治や倫理を熟知しているインテリの人たちであって、DQNの出る幕はない。また、育ちのいい上流階級の人(はてなに多い)は自然と政治的に正しい振る舞いができるが、育ちの悪い下流階級の人は軽率にホモとか言ってしまう。「高学歴>低学歴」「上流階級>下流階級」という力関係。これは考慮されないのか。それから、政治的正しさはアメリカから輸入されたアメリカ的なものであって、「アメリカ>日本」という力関係を考慮すべきではないのか。「ディズニー映画は政治的に正しい。それに比べて日本のコンテンツは…」みたいなことを言う日本人って名誉アメリカ人じゃないのか。
政治的正しさは用法・用量を守って正しく使うべきだと思います。

*1:市民レベルでは

*2:起源的には

「清潔感」志向と倫理

何が美しくて何が醜いかは人それぞれだが、最大公約数的なものはどうしても存在する(それを是認することがいわゆるルッキズムなのだろう)。本邦においてとりわけ強いのが「清潔感」というやつだ。清潔感のあるものは美しく、不潔感のあるものは醜い。同感である。しかし、これはよく考えるとペドフィリアの温床ではないか。子供の肌には清潔感があり、老人の肌には清潔感がない。いわゆるエイジズムの温床でもあるだろう。
確信した。いわゆるルッキズム、いわゆるエイジズム、ペドフィリア、これらはすべて「清潔感」志向と強く結びついている。これらを滅ぼしたいなら「清潔感」志向に反対するしかない。すなわち、清楚よりダーティー、萌えよりエロだ。

ルッキズムとかいう言葉

「外見主義」のことをルッキズムというらしい。ルッキズムは差別らしい。いや、人を外見で判断するのは当たり前だろう。そうでなければ何で判断するのか。言動?言動も外見ではないか。
容姿が醜いことは悲しいと思う。ただ、世の中には「ブス」や「デブ」が好きな人もいる。それが救いだ。大事なのは、美醜の多様性を認めることであって、美醜にこだわらないことではないだろう(そんなことは不可能である)。
「美形」「不細工」みたいな言葉は、美醜について静止的な構造を前提としている*1から、よくない。「かっこいい」「かわいい」「キモい」「ダサい」とかは、感想だから、まあ。ともかく、美醜は私的なものであって公的なものではない。ミスコンは滅べ。

男性器は根絶されるべきである(あるいはフェミニズムとオタクについて)

男性器の根絶。もちろん、そんなことは不可能だ。男性は欲望のために反対するだろう(僕もいやだ)。女性の多くも欲望のために反対するだろう。大多数の人間は欲望や感情で動く。それゆえ階級も搾取もなくならない。とはいえ、階級や搾取が好ましくないことに変わりはない。理想とは実現しないものだ。
性犯罪をなくすために性犯罪シーンのある漫画を禁止するなんてばかげている。銃犯罪をなくすために銃犯罪シーンのある映画を禁止するようなものだ。本当に銃犯罪をなくすには、銃そのものを禁止しなければならない。同様に、性犯罪をなくすには男性器を禁止しなければならない。大多数の人間は欲望や感情で動く。理性になど期待してはいけない。
男性にも人権はある。しかし、勃起したり射精したりする権利なんて本当に守られるべきだろうか。男性器が社会に広く存在する限り、「犯されない権利」「孕まない権利」は常におびやかされる。人が犯し犯される社会を維持するのか、人が犯さず犯されない社会を望むのか。
子供を作れなくなる。それは大問題のようだが、そもそも子作りは倫理的ではない。それは生老病死の苦しみを勝手に作り出すことに他ならない。反出生主義は倫理的に正しい。
倫理的には、どう考えても、男性器は根絶されるべきである。もちろん、そんなことは不可能だ。しかし、物理的には不可能であっても心理的には可能かもしれない。心理的に去勢された男性のことを「草食系」という。

虫と自由

ふと、自由について書きたくなった。しかし、自由についてちゃんと論じるのはハードルが高い。この概念は、アメリカの国是だったり、フランスの国是だったり、リベラルの語源だったりする。政治哲学の主要概念である。なので、適当に書く。
結論から言うと、正しい自由とは「虫のようなあり方」だと思う。とりあえず、手元の国語辞典を引いてみよう(日本人だからfreedomやlibertyのことはわからない)。そして、持論に都合のいい部分を引用しよう。

じゆう【自由】
他からの強制・拘束・支配などを受けないで,自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。(後略)
大辞林 第三版

「意志や本性」と書いてあるが、たとえば「本性」を「本能」にしてみるとよくわからなくなる。常識的に考えて、意志と本能は相反する。本能に忠実な人間は意志を貫徹できない。だから、常識的に考えてはならない。人間ではなく虫を見てみよう。虫はいつでも本能に忠実だが、いつでも現実に向き合っている。虫において意志と本能の区別はない。
ところで、ある小説にこんなセリフがある。

「自分の運命をつかめない存在は虫です。
 私は虫が嫌いです。羽をもがれたようで見るに堪えません」
(中略)
「虫で居続けることに甘んじる人を人間だとは思いません」
魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」

ここでは虫と人間が対置されており、人間の方が自由とされているようだ(羽は自由の象徴)。虫のごとく本能に従うばかりではなく、人間には「自分の運命をつかむ力」が備わっている、ゆえに自由であると。一方、欲望のままセックスやドラッグに溺れることが自由であるという考え方も当然ある。
僕の感覚からすると、「自分の運命をつかめ」と迫られている状態は自由ではない。溺れて泳げない状態も自由とはいえない。虫のようなあり方――高い志を持たず、過剰に欲することもない――こそが、中道であり、正しく自由だと思う。そして、人間は複雑な虫にすぎないとも思う。

フェミニズムはどうでもいいがジェンダーフリーは支持する

女性の政治家が増えようが減ろうがどうでもいい。女性じゃないし、政治家なんてならないし。
女性の非正規社員が多かろうが少なかろうがどうでもいい。正社員になれなくて可哀想だなんて思えない。週に40時間も働きたがる人の気持ちがわからない*1
女性の地位向上に興味がない。女性じゃないし、地位に縁がない。地位が高いほど責任は重い。重いものを持てない。弱いから。
「男>女」という世界観には強く反対する。なぜなら、身長が低いから。男は女より上でなければならない、そんな世界はクソだ。
フェミニズムジェンダーフリーは似て非なるものだと感じている。フェミニズムはどうでもいいがジェンダーフリーは支持する。

*1:僕はパートをしている。もちろん自活。正社員だった時期もあるけど、しんどくてやめた