本音と建前とインターネット
差別は悪い。一般常識である。ただし、それは差別行為の話であって、心の中で「差別」することは自由である。本音がどうであろうと、まっとうな建前さえあればいい。なければ悪い。
また、名誉毀損やプライバシー侵害は悪い。「痛い人をこっそり観察すること」は悪くない。要は悪意をあらわにするかどうかである。性根の悪さを問うのは不毛である。
いくら同性愛を嫌悪していようと、それを隠し通せるなら誰にも文句は言えない。反対に、いくら無邪気でも、同性愛を公然とネタ消費すれば文句を言われても仕方ない。人間は行動で判断される。
「リアルは建前、ネットは本音」という感覚のひともいるらしい。たしかにウェブでは本名も顔も隠して情報発信できる。しかし、ウェブは基本的に開かれた空間である。開かれた空間でみにくい本音を出すことは悪いだろう。
ただ、すでに少なくない数の人々(筆者含む?)が「開かれた空間(ウェブ)でみにくい本音を出すこと」に慣れてしまっている。その悪が退治されたら、どうなるんだろう。
「Twitter民」という言葉が気持ち悪い(あるいは「民」考)
どうして気持ち悪いのか。
そもそも「〜民」というのはネットでよく使われるスラングで、「ゲハ民」「嫌儲民」のようなわかりやすい使い方もあれば「スマホ民」「たけのこ民」など風変わりな使い方もある。風変わりなのは別にいい。むしろ「Twitter民」は、一見普通の使い方に見えるからいやらしい。まあ、スラングの使い方に正誤なんてない。これは批判ではなく愚痴である。
「たけのこ民」などは、国民になぞらえれば理解しやすい。日本の民でありつつ中国の民であることができないように、たけのこ民でありつつきのこ民であることはできない。本来、民とはそういうものである。Twitterユーザーでありつつ2ちゃんねるユーザーであることはできる。これは気持ち悪さの一因だろう。しかし、それだけなら「ゲハ民」「嫌儲民」だって同じだ。
なぜ「ゲハ民」「嫌儲民」は許せて「Twitter民」は許せないのか。なにが違うのか。はっきりしている。ゲハや嫌儲は場であり、Twitterは場でない。
以下、民=構成員という前提で話を進める。2ちゃんねるの構造をいまさら振り返ってみよう。テーマごとに板があり、板ごとに空気があり、その中にスレがあり、スレごとに空気があり、その中に人がいる。しかも基本的に名無し。2ちゃんねるに書き込む者はまさしく、板・スレという場の構成員である。
Twitterはどうか。全ユーザーが全他者をフォローしているなら、全ユーザーがTwitterという場の構成員であると言えるかもしれない。ばかばかしい。好きな人をフォロー(そしてブロック)できるのがTwitterだ。ユーザーは散らばっている。存在するのはせいぜい、各ハッシュタグの民や各クライアントの民である。終わり。
まあ、スラングの使い方に正誤なんてない。これは批判ではなく愚痴である(念押し)。
ニコニコ進歩派、ニコニコ保守派
「テニミュ」が流行っていた頃とは隔世の感がある。あの頃は、動画を台無しにするような空耳がニコニコ動画の象徴たりえた。人が増えた結果、無法であり続けることができなくなった。サーバが自前になり、削除が強化され、権利者に嫌われる動画が減った。今では、「権利者に嫌われない動画の権利者」の権利が主張されたりする。ある意味、「ミリしらはハイエナにすぎない」というのは「進歩派」の考え方と言えるかもしれない。とすれば、「自由」を守ろうとする勢力は保守派になるんだろう。
ネットと変人とニコニコ動画
インターネットの普及は、世の中にいくらかの解放感と緊張感をもたらしたと思う。誰でもたやすく情報発信できるようになり、誰かが目立つ場所で変なことをすれば、大勢の人から目に見える形で叩かれたりつっこまれたりするようになった。
「叩く」と「つっこむ」は異なるもので、なおかつ切り離しがたい。良き変人と悪しき変人がいるとして、線引きは難しい。その点、ニコニコ動画は風通しがいい。つっこみ甲斐のあるものが基本的に肯定されるし、良き変人が堂々とできる。