「草不可避」と「wwww」
「草生える」「草不可避」あるいは端的に「草」、こうした表現をウェブ上でしばしば見かけるようになったのは2012年からだったか。今ではもうすっかり俗な表現であり、なんとなく使っている人も多いだろうが(それこそ「wwww」と併用したり)、こうした表現を使い始めた連中が
「wwww」なんてみっともなくて書けない
などと思っていたことは想像に難くない。「草生える」と言いつつ実際には草を生やさないのだから、草を生やすことへの否定を含んでいたのは明らかだ。
「wwww」という表現には、バカ笑いのイメージがあると思う。笑いがだだ漏れしている感じ、とでもいうか。実際、キーボードの同じ部分を押し続けるだけでアウトプットできる原始的な表現である。
ところで、ニコニコ(動画、生放送)は「wwww」と相性がいい。あのUIは、推敲されたコメントではなく、脊髄反射的な感情、素早く打ち込めるテキストを要求する。2ちゃんねるなどでは演技的な「wwww」も多く見られる(スレタイでは草が生えてるのに本文では冷めてるとか)が、ニコニコの「wwww」は基本的にベタだと思っていい。
話は飛ぶが、ニコニコ動画の初期に「空耳」と「弾幕」が流行った。空耳はしばしば、音声を発した対象を揶揄する、バカにするものだ。動画の上にコメントを被せるデザインは上から目線と相性がいい。それに対して弾幕に参加することは、むしろ自分から積極的に弾ける、個を捨てる、思考停止する、バカになるものだ。
なおかつ、空耳にも「バカになる」要素(意味を排して感覚だけを残すという思考停止)があり、弾幕にも「バカにする」要素(コメントをぶちまけて対象を汚す)がある。「バカにする」と「バカになる」の間に壁がない、それがニコニコ動画の面白いところだと僕は思う。そして、両者を兼ね備えているのは「wwww」も同様である。
「人をバカにしていいのはバカでない者だけ」という思想からすれば、「wwww」は滅ぼすべき表現だろう。バカ笑いでありつつ嘲笑でもありうるのだから。また、「人をバカにしていいのは人からバカにされる覚悟のある者だけ」という思想からすれば、嘲笑としての「wwww」を「草不可避」などと言い換えてバカにされることを回避しようとする、そんな態度は唾棄すべきものだろう。
(淫夢に言及しろ、とかいう苦情は受け付けません)
日本のネット文化史において重要だと僕が思う4つの崩壊
- Windows 95の登場で、ギークと非ギークの間の壁が崩壊した(パソコンがある程度カジュアルなものになった)
- 2ちゃんねるの登場で、ウェブのアンダーグラウンドとオーバーグラウンドの間の壁が崩壊した(それを象徴する出来事が西鉄バスジャック事件)*1
- YouTubeやニコニコ動画の登場で、アニオタと非アニオタの間の壁が崩壊した(深夜アニメがある程度カジュアルなものになった)*2
- Twitterやスマートフォンの登場で、パソコン文化圏とケータイ文化圏*3の間の壁が崩壊した(その結果として起こっている摩擦が「バカッター」であり「地獄インターネット」ではないかと思う)*4
僕がこれらを重要だと思うのは、単に僕自身がこれらの出来事(4以外)に大きな影響を受けたからかもしれない。僕はWindows 95からパソコンを使い始めた。2ちゃんねるでネットウォッチャーの存在を知った。ニコニコ動画の影響でオタク的(コミケ的)なものに対する抵抗が小さくなった。そんなこんなで、気づけば「濃い側」(パソコン文化圏)にいる。
「叛逆の物語」を見て「ウゥゥゥウウロブチィィイイイ!!!」と叫ぶのは早とちりだと思う(ネタバレ)
https://twitter.com/ricca5/statuses/395146486490484736
https://twitter.com/Kazmachyov/statuses/394000548451471361
どちらもめちゃめちゃリツイートされている。でも、違和感が。
もともと、甘ったるそうな魔法少女アニメなのに展開がシビアであるということで、意地の悪さからネタ的に話題になったTVアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」だが(アニメファンではなくネットユーザーとしての見方)、その結末は案外素直なものだった。では甘かったのかといえば、そんなことはない。
まどかが、既定の制度(魔法少女システム)とSF的な力(因果の量が云々)を使って既定のルール(魔女化)を無効にする。そして、もっと上位のルール(条理にそぐわない希望は云々)が働いて魔獣システムが生じる。大筋において奇跡は起こらない。
が、最後にボーナス的な奇跡が起こる。ほむらの記憶とまどかのリボン。「叛逆の物語」ではこの奇跡が前提になっている。
そんな「叛逆の物語」の結末は、なんか死にかけのほむらが愛の力(?)で円環の理とまどかを分離してまどかを人間として復活させ、自分自身も「悪魔」として復活し、結果的にさやか他も復活するというもの。なにこれ。まあ、まどかはいきなり概念に戻ろうとしていたけど。
ぜひ続編をやってほしい。ほむらの強引なやり方のせいで醜く歪んでしまった世界を見たい。そしてまどかに歪みを正しく正してほしい。それでこそまどか☆マギカだと思います(TVシリーズ厨として)。
「振り込めない詐欺」がもたらす豊かさ
数ヶ月前に話題になった記事より。
方向性が染まったテレビに飽きた人が、ネットの多様性に流れてると考えてるおいらです。多様性を捨てたら、テレビの質に勝てないです。
ネットの多様性を支えている物事のひとつに、「振り込めない詐欺」があると思う。簡単に振り込めてしまうと、つまり発信者がお金を得やすくなると、発信へのモチベーションは上がるだろう。ただし、数字への執着を伴って。「数字が全て」というプロフェッショナルな考え方に染まっていないからこそ、ネットは多様で面白い。
世の中には、儲かるとか、モテルとか、わかりやすい目標に対する努力とかあるんですが、多大な努力をしてるわりにその目標がそもそもオカシイってな自己満足まくりなコンテンツってのがネットでは、たまに出て来るんですが、そういうのが大好きだったりするおいらです。
同感。
「社畜」という言葉の俗化について
はてなブックマーク - 社畜論に学ぶ「プロブロガー」の文章術 - 徳丸浩のtumblr
QJV97FCr
「社畜」ってサラリーマンが自虐的に言うから成り立つんで、それ以外の人が口にするだけで十分不愉快です
yoko-hirom
社畜と呼ばれて誇らしさが胸にこみ上げてこないようでは,まだまだ。
もともと「社畜」という語は、ある左翼系評論家が広めたもので、ある種の労働者を批判するための言葉だった。いまでも批判の言葉として使う人はいるが、たとえばTwitterで「社畜なう」とでも検索してみれば、この言葉がどれだけ軽くなっているかわかる。どうしてこうなったのか。
批判に対応するリアクションは反論や反省であって、単なる自虐は別の次元にある、と思う。元凶は、単なる虐めのために「社畜」という言葉を使う人たちではないか?「ログ速」で社畜と検索してみれば、そんな例が腐るほど出てくる。とはいえ、これは必然という気もする。なにしろ、人を家畜同然に扱う言葉なのだから。
結局、雇われている側を叩こうとする所に根本的な原因があるのかもしれない。どうしても上から目線の言葉になるし、だから単なる虐めにもなりうる。その点、雇っている側を指す語である「ブラック企業」は安定感がある。
虚構新聞的な感性に対するカウンターとしての影村黒絵
『空が灰色だから』最終巻を読んだ。いい漫画だった。何がいいのかというと、ちょっと難しい。わかりやすい突き抜けた何かがあるわけではないと思う。
単行本裏表紙にこうある。「コメディか、ホラーか、背徳か、純真か、説明不能の"心がざわつく"思春期コミック」と。最終巻収録のエピソードで、まさに、というものがあった。題名は『さいこうのプレゼント』。
一見コメディであり、実はホラー。ヒロインの影村黒絵は、背徳的であり、ある意味純真であり、高校2年生。公式の説明そのまんまということで、この話を「空灰」の象徴としてよいかもしれない。表紙にもなっているし。
好きな先輩に黒絵がラブレターを渡すシーンがある。赤い色で「ころしていえにかざりたいほどだいすき」。紙には血しぶき。先輩は「ダイイングメッセージかよ!」「内容こわすぎ!」とつっこむ。コメディタッチで描かれているが、ある仕掛けに気付くと、読者は彼女が本気であるとわかる。
ギャグだと思ったら負け。額面通りに読むのが正解。虚構新聞だとか「ネタにマジレス恥ずかしい」だとか、そういう類のシニカルさにどっぷり浸かっているネット民にこそ、これは効くんじゃないか。そんなことを思った。
「鹿目まどかは社畜」説について
http://lunaticprophet.org/archives/13279
はてブで反論したのだけど、もう少し僕の考えを詳しく書いてみる。せっかく映画が公開中なので。
「社畜」というキーワードにちなんで、魔法少女としての活動を「時間内労働」、魔女としての活動を「サービス残業」と考えてみよう。すると、まどかの願いはこうなる。
これは一見、「他の子がサービス残業しなくてもいいように、そのぶん私が働く」とも読める。もしその通りなら、社畜だの自己犠牲だのと批判されても仕方がないだろう。しかしそれは誤解である。
私だって、もうサービス残業する必要なんて、ない!
まどかはサービス残業を引き受けたのではなく、「サービス残業不可」というルールを作ったのだ。命と引き換えに、ではあるが、この差は大きい。結果、インキュベーターの収益性は低下した。決して「キュゥべえの勝ち逃げ」という話ではない。