男性器は根絶されるべきである(あるいはフェミニズムとオタクについて)

男性器の根絶。もちろん、そんなことは不可能だ。男性は欲望のために反対するだろう(僕もいやだ)。女性の多くも欲望のために反対するだろう。大多数の人間は欲望や感情で動く。それゆえ階級も搾取もなくならない。とはいえ、階級や搾取が好ましくないことに変わりはない。理想とは実現しないものだ。
性犯罪をなくすために性犯罪シーンのある漫画を禁止するなんてばかげている。銃犯罪をなくすために銃犯罪シーンのある映画を禁止するようなものだ。本当に銃犯罪をなくすには、銃そのものを禁止しなければならない。同様に、性犯罪をなくすには男性器を禁止しなければならない。大多数の人間は欲望や感情で動く。理性になど期待してはいけない。
男性にも人権はある。しかし、勃起したり射精したりする権利なんて本当に守られるべきだろうか。男性器が社会に広く存在する限り、「犯されない権利」「孕まない権利」は常におびやかされる。人が犯し犯される社会を維持するのか、人が犯さず犯されない社会を望むのか。
子供を作れなくなる。それは大問題のようだが、そもそも子作りは倫理的ではない。それは生老病死の苦しみを勝手に作り出すことに他ならない。反出生主義は倫理的に正しい。
倫理的には、どう考えても、男性器は根絶されるべきである。もちろん、そんなことは不可能だ。しかし、物理的には不可能であっても心理的には可能かもしれない。心理的に去勢された男性のことを「草食系」という。

虫と自由

ふと、自由について書きたくなった。しかし、自由についてちゃんと論じるのはハードルが高い。この概念は、アメリカの国是だったり、フランスの国是だったり、リベラルの語源だったりする。政治哲学の主要概念である。なので、適当に書く。
結論から言うと、正しい自由とは「虫のようなあり方」だと思う。とりあえず、手元の国語辞典を引いてみよう(日本人だからfreedomやlibertyのことはわからない)。そして、持論に都合のいい部分を引用しよう。

じゆう【自由】
他からの強制・拘束・支配などを受けないで,自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。(後略)
大辞林 第三版

「意志や本性」と書いてあるが、たとえば「本性」を「本能」にしてみるとよくわからなくなる。常識的に考えて、意志と本能は相反する。本能に忠実な人間は意志を貫徹できない。だから、常識的に考えてはならない。人間ではなく虫を見てみよう。虫はいつでも本能に忠実だが、いつでも現実に向き合っている。虫において意志と本能の区別はない。
ところで、ある小説にこんなセリフがある。

「自分の運命をつかめない存在は虫です。
 私は虫が嫌いです。羽をもがれたようで見るに堪えません」
(中略)
「虫で居続けることに甘んじる人を人間だとは思いません」
魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」

ここでは虫と人間が対置されており、人間の方が自由とされているようだ(羽は自由の象徴)。虫のごとく本能に従うばかりではなく、人間には「自分の運命をつかむ力」が備わっている、ゆえに自由であると。一方、欲望のままセックスやドラッグに溺れることが自由であるという考え方も当然ある。
僕の感覚からすると、「自分の運命をつかめ」と迫られている状態は自由ではない。溺れて泳げない状態も自由とはいえない。虫のようなあり方────高い志を持たず、過剰に欲することもない────こそが、中道であり、正しく自由だと思う。そして、人間は複雑な虫にすぎないとも思う。

フェミニズムはどうでもいいがジェンダーフリーは支持する

女性の政治家が増えようが減ろうがどうでもいい。女性じゃないし、政治家なんてならないし。
女性の非正規社員が多かろうが少なかろうがどうでもいい。正社員になれなくて可哀想だなんて思えない。週に40時間も働きたがる人の気持ちがわからない*1
女性の地位向上に興味がない。女性じゃないし、地位に縁がない。地位が高いほど責任は重い。重いものを持てない。弱いから。
「男>女」という世界観には強く反対する。なぜなら、身長が低いから。男は女より上でなければならない、そんな世界はクソだ。
フェミニズムジェンダーフリーは似て非なるものだと感じている。フェミニズムはどうでもいいがジェンダーフリーは支持する。

*1:僕はパートをしている。もちろん自活。正社員だった時期もあるけど、しんどくてやめた

つみです

ヒテッマン氏が突然引退してから2年と3ヶ月弱。今、思う。僕にとってのチートバグ動画はあの日から終わり始めたんだなあ、と。
ポイントは動画というよりコメントにある。
ニコニコ大百科: 「ヒテッマンリスペクト」について語るスレ 151番目から30個の書き込み - ニコニコ大百科

163 : ななしのよっしん :2013/11/29(金) 12:02:33 ID: K76NrVNp6J
このタグの付いた動画全般にいえるけど、コメントがテンプレ的なものばかりでつまらない
リスペクトしてるからって一々ヒテッマン用語とか使わなくていいと思うんだけどな

169 : ななしのよっしん :2013/12/15(日) 16:20:21 ID: wj6jmoOpVi
ヒテリス動画でしばらく時間経ったのを見ると、定型文以外が増えてて
そのコメントもあまり面白くなかった
なんか討論してたり、芝はえてたりしてたってのもあるが
やっぱ様式美とかテンプレな流れはある程度必要だなと思ったよ

今、僕はどちらの気持ちもわかる。きれぼし脳にとっては「いまさら笑うようなものじゃない」バグで一般視聴者は笑う。芝を生やす者よりもテンプレ的なコメントをする者の方が「慣れている」「レベル高い」という構造があると思う。しかし、テンプレはやはり退屈だ。
「ヒテッマン」時代は新しい用語が次々に生まれていた。現在のバグコメは「ヒテッマン」時代のネタが大多数である。淀んでいる。かといって、いまさらヒテッマンリスペクト以外のチートバグ動画を見ようという気にはならない。

ブラック企業の「ブラック」は、絵の具の黒か、宇宙の黒か

「ブラック企業」は、人種差別用語である | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
こんな記事が話題になっていた。
これについては、アメリカで白人が「black」を否定的に使うのと、日本で日本人が「ブラック」を否定的に使うのとでは話が違うだろう、という見解なのだけれど。
有色人種を蔑む白人の思考は興味深い。「ワン・ドロップ・ルール」とかいうのがあった所を見ると、彼らは純粋性を重視しているんだろう。有色→濁ってる→ダメ、白い→清い→良い、という。
しかし、何もない宇宙空間は黒いわけで、黒こそが純粋であるという見方もできる。もっとも、黒人の黒は濁ってる方の黒だと思う。いや、蔑んでるんじゃなくて、黒人音楽は濁っててカッコイイと思う。
ブラック企業の「ブラック」はどっちの黒なんだろう。濁りの黒なのか、闇の黒なのか。語源はブラックリストらしいけど…どちらとも言えるような気がする。
左派が「ブラック企業」という語を用いるなら、「資本主義社会は基本的に闇の世界であり、労働者の助けとなるものは光であり、ブラック企業とは光の届かない場所である」というイメージで「ブラック」と呼ぶのがいいんじゃないかと思う。
逆に、保守派が「ブラック企業」という語を用いるなら、「ブラック企業とは不良であり、社会秩序を乱す異分子であり、清く正しく生きる者の敵である」というイメージで「ブラック」と呼ぶのがいいんじゃないかと思う。

「歴代」

はてなブックマーク - 首相コピペあいさつ、長崎も 被爆者からの批判に無言:朝日新聞デジタル

shimashimaco
コピペの癖に「不戦の誓い」「憲法の規定を遵守」は削除してるんだってね。そして批判にはだんまり。姑息な。ますます信用ならない人物だ。 2014/08/10

nisatta
憲法の規定遵守は削除」とか小田嶋のウソ(歴代首相が営々として踏襲云々)を信じるコメントに辟易。麻生、福田の演説調べろ。そもそも改憲自民党の公約だ。知っててデマ拡散してるなら「姑息」極まりない。 2014/08/10

rdetfhku
id:nisatta 小田嶋氏のその記述はウソじゃないですよ。麻生、福田じゃなくて小泉までの話です http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20140807/269785/?P=5 http://d.hatena.ne.jp/next49/20140807/p3 2014/08/10

以下省略


http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20140807/269785/?P=5

 昨年の演説において既にそうだったが、安倍さんが原爆記念式典において読み上げたスピーチ原稿には、これまで、歴代の内閣総理大臣が、営々として踏襲してきた文言のうちのいくつかがすっぽりと抜け落ちている。


 たとえば、「憲法」への言及が無い。
 これまで、広島の演説では、戦後の首相は、歴代、一貫して、憲法を遵守し、平和を守る旨の言葉を述べてきた。それが、「慣例」になっていた。

ここでの「歴代」は、「昨年以前(2012年まで)」と読めます。実際には、福田(2008年)と麻生(2009年)は踏襲しませんでした*1。よって正確ではありません。
次。

 安倍首相自身も、第一次内閣の時の演説(2007年8月6日)では、


《私は、犠牲者の御霊と広島市民の皆様の前で、広島、長崎の悲劇を再び繰り返してはならないとの決意をより一層強固なものとしました。今後とも、憲法の規定を遵守し、国際平和を誠実に希求し、非核三原則を堅持していくことを改めてお誓い申し上げます。》


 と、歴代の総理が言った通りの言葉をほとんどそのまま読み上げている。

ここでの「歴代」は、「2006年まで」と読めます*2。「2006年まで」も「2012年まで」も同様に「歴代」と表現されていることは注目に値します。たとえば、1944年だったら、戦後の「歴代」は存在しません。1944年と2007年では、決定的に「歴代」の意味が違います。
さて、2007年と2013年ではどうでしょうか。決定的に「歴代」の意味が違うでしょうか。小田嶋氏(1956年生まれ)はそう考えていないようです*3。nisatta氏はそう考えているようです。2008年8月6日、その時歴史が動いたのか。そうでもないのか。おそらく、ここで判断が分かれているのです。

*1:歴代首相の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式あいさつリンク - 発声練習

*2:僕の「小泉までの話」というコメントはこの部分に基づいたものです。今から思えば主観的です

*3:厳密には、「このコラムを書いた時点では」そう考えていなかった、です

面白さについて(雑文)

たまに、世の中に「面白い人」と「つまらない人」がいるかのように語る人がいますが、人生の中に面白いこととつまらないことがあるだけだと僕は思います。なぜなら、面白いかどうかは主観でしかないし、人間は多面的だからです。
面白さを客観的に決めようとすると、数字を取れるかどうかみたいな話になります。要するに視聴率至上主義です。あるいはアンケート至上主義(ジャンプ)です。それはそれで有効ですが、それだけでありとあらゆる面白さを網羅することはできません。
面白いかどうかは主観だけれど、マトモかどうかは客観です。「面白くない」は感情論もしくは感情表現ですが、「マトモじゃない」は論理的な批判たりえます。こことここが矛盾してるとか、ここの日本語がおかしいとか、この絵は物理的に不自然とか、あるいは「基本がなってない」とか。
作法に従うことは、面白くないことと紙一重です。面白いものが好きな人は、常に新しさを求めているからです。作法を知らないのは未熟ですが、作法を知った上で作法に従わないのはスタイルです。現代音楽とか全部そうです(多分)。
面白さについて考える上で、多様(性)という言葉は一つのキーワードです。なぜなら、人の趣味は多様だからです。プロの世界では、マトモじゃない表現は切り捨てられることが多いですが、ウェブにはマトモじゃない表現を自由に投下できます。よって、ウェブには良くも悪くも多様な表現があります*1
人の趣味は多様ですが、全ての人はホモ・サピエンスでしかありません。だからこそ、視聴率至上主義やアンケート至上主義が通用します。マスメディアにはマスメディアの役割があり、ウェブにはウェブの役割があります。当たり前ですが。