「振り込めない詐欺」がもたらす豊かさ

数ヶ月前に話題になった記事より。

方向性が染まったテレビに飽きた人が、ネットの多様性に流れてると考えてるおいらです。多様性を捨てたら、テレビの質に勝てないです。

ネットの多様性を支えている物事のひとつに、「振り込めない詐欺」があると思う。簡単に振り込めてしまうと、つまり発信者がお金を得やすくなると、発信へのモチベーションは上がるだろう。ただし、数字への執着を伴って。「数字が全て」というプロフェッショナルな考え方に染まっていないからこそ、ネットは多様で面白い。

世の中には、儲かるとか、モテルとか、わかりやすい目標に対する努力とかあるんですが、多大な努力をしてるわりにその目標がそもそもオカシイってな自己満足まくりなコンテンツってのがネットでは、たまに出て来るんですが、そういうのが大好きだったりするおいらです。

同感。

「社畜」という言葉の俗化について

はてなブックマーク - 社畜論に学ぶ「プロブロガー」の文章術 - 徳丸浩のtumblr

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社畜」ってサラリーマンが自虐的に言うから成り立つんで、それ以外の人が口にするだけで十分不愉快です

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社畜と呼ばれて誇らしさが胸にこみ上げてこないようでは,まだまだ。

もともと「社畜」という語は、ある左翼系評論家が広めたもので、ある種の労働者を批判するための言葉だった。いまでも批判の言葉として使う人はいるが、たとえばTwitterで「社畜なう」とでも検索してみれば、この言葉がどれだけ軽くなっているかわかる。どうしてこうなったのか。
批判に対応するリアクションは反論や反省であって、単なる自虐は別の次元にある、と思う。元凶は、単なる虐めのために「社畜」という言葉を使う人たちではないか?「ログ速」で社畜と検索してみれば、そんな例が腐るほど出てくる。とはいえ、これは必然という気もする。なにしろ、人を家畜同然に扱う言葉なのだから。
結局、雇われている側を叩こうとする所に根本的な原因があるのかもしれない。どうしても上から目線の言葉になるし、だから単なる虐めにもなりうる。その点、雇っている側を指す語である「ブラック企業」は安定感がある。

虚構新聞的な感性に対するカウンターとしての影村黒絵

空が灰色だから』最終巻を読んだ。いい漫画だった。何がいいのかというと、ちょっと難しい。わかりやすい突き抜けた何かがあるわけではないと思う。
単行本裏表紙にこうある。「コメディか、ホラーか、背徳か、純真か、説明不能の"心がざわつく"思春期コミック」と。最終巻収録のエピソードで、まさに、というものがあった。題名は『さいこうのプレゼント』。
一見コメディであり、実はホラー。ヒロインの影村黒絵は、背徳的であり、ある意味純真であり、高校2年生。公式の説明そのまんまということで、この話を「空灰」の象徴としてよいかもしれない。表紙にもなっているし。
好きな先輩に黒絵がラブレターを渡すシーンがある。赤い色で「ころしていえにかざりたいほどだいすき」。紙には血しぶき。先輩は「ダイイングメッセージかよ!」「内容こわすぎ!」とつっこむ。コメディタッチで描かれているが、ある仕掛けに気付くと、読者は彼女が本気であるとわかる。
ギャグだと思ったら負け。額面通りに読むのが正解。虚構新聞だとか「ネタにマジレス恥ずかしい」だとか、そういう類のシニカルさにどっぷり浸かっているネット民にこそ、これは効くんじゃないか。そんなことを思った。

「鹿目まどかは社畜」説について

http://lunaticprophet.org/archives/13279
はてブで反論したのだけど、もう少し僕の考えを詳しく書いてみる。せっかく映画が公開中なので。
社畜」というキーワードにちなんで、魔法少女としての活動を「時間内労働」、魔女としての活動を「サービス残業」と考えてみよう。すると、まどかの願いはこうなる。

すべてのサービス残業を、生まれる前に消し去りたい。(中略)この手で。*1

これは一見、「他の子がサービス残業しなくてもいいように、そのぶん私が働く」とも読める。もしその通りなら、社畜だの自己犠牲だのと批判されても仕方がないだろう。しかしそれは誤解である。

私だって、もうサービス残業する必要なんて、ない!

まどかはサービス残業を引き受けたのではなく、「サービス残業不可」というルールを作ったのだ。命と引き換えに、ではあるが、この差は大きい。結果、インキュベーターの収益性は低下した。決して「キュゥべえの勝ち逃げ」という話ではない。

「wwww」と「!?」

ニコニコ動画では主にネタ動画を見るので、これらのコメントを頻繁に見かける。どちらも、誰でも打てる無難なコメントの代表格である。
「wwww」はニコニコ動画初期からよく見られたものと思われるが、「!?」が定着したのはしばらくしてからである。ニコニコ大百科の掲示板を見ると、流行りだした当時の雰囲気を伺える。当時は賛否両論があった。結局、否定派は(ほぼ)淘汰された。「!?」の定着以前と以後では何かが変わったんだろう。
変な物事を笑うのが「wwww」なら、変な物事に驚くのが「!?」である。正確には、驚く様子を見せる。「私は普通の人であり、この展開にはついていけません」というアピール。それが対象のおかしさを際立たせる。「wwww」が観客の笑い声なら、「!?」はツッコミかもしれない。

ニコニコ動画とレベル

http://b.hatena.ne.jp/entry/matome.naver.jp/odai/2134440748265351001
「(動画が)レベル高いからダメ」という意見と「(コメントが)レベル低いからダメ」という意見が同時にあって面白い。
前者はわかる。ロースキルでくだらなくても面白ければいいし、プロっぽくてもそれだけではつまらないし視聴者がそれに慣れていくと緩さがなくなる。
後者はどうかと思う。ニコニコのコメントってレベルとか気にするものだろうか。大体レベル高いコメントってどんなのだろう。面白いコメントは寒いコメントと紙一重だし、無難なコメントの極みは「wwww」とか「8888」の類だろうけどそれは小学生でも打てる。「意識の高いコメント」は有害ですらある。

まどか☆マギカのキャラクターのゆらぎ

なんか思いついたのでメモ。思いつくのが1年以上遅い。


まどか ⇒ 魔法少女になる、ならないでゆらぐ。最終的には、ワルプルギスの夜の襲来を直接的なきっかけとして「なる」ことを選択。
さやか ⇒ 契約してよかった、するんじゃなかったでゆらぐ。最終的には、まどかの誘導で「よかった」という結論を出す(ただし泣きながら)。
ほむら ⇒ まどかに対してツンとデレの間でゆらぐ。最後にはまどかと全裸で抱き合う。
キュゥべえ ⇒ 本人はゆらがないが、視聴者目線では腹黒キャラと天然ボケキャラの間でゆらぐ。狡猾な宇宙人という設定であり、狡猾さは腹黒、宇宙人ぶりは天然ボケと解釈される。「魔法少女になってよ」は腹黒発言、「わけがわからないよ」は天然ボケ発言。最後には「まどかの願いを想定していなかった」という天然ボケをかます
マミさん ⇒ お姉さんと女の子の間でゆらぐ。3話、10話では未熟さを露呈。背伸びした中学生であり、中二病扱いもそれほど的外れではないと思う。
杏子 ⇒ 悪い子として登場するが、さやかとの接触以後、ゆらぐ。最終的にはいい子っぽい印象のキャラに。


総評

  • 中学生キャラクターのゆらぎは思春期の不安定さと解釈できる。思春期おいしい。キュゥべえの言う通り。
  • どのキャラクターも虚淵玄氏と蒼樹うめ氏の作風の間でゆらいでいると言えそう。
  • キャラクターのゆらぎはキャラクターへの言及の余地でもある。これは実況や作品語りや考察や二次創作の盛り上がりに寄与したと思われる。
  • ゆらぐキャラクターに一貫した人格を与えているのが声優の演技。