つみです

ヒテッマン氏が突然引退してから2年と3ヶ月弱。今、思う。僕にとってのチートバグ動画はあの日から終わり始めたんだなあ、と。
ポイントは動画というよりコメントにある。
ニコニコ大百科: 「ヒテッマンリスペクト」について語るスレ 151番目から30個の書き込み - ニコニコ大百科

163 : ななしのよっしん :2013/11/29(金) 12:02:33 ID: K76NrVNp6J
このタグの付いた動画全般にいえるけど、コメントがテンプレ的なものばかりでつまらない
リスペクトしてるからって一々ヒテッマン用語とか使わなくていいと思うんだけどな

169 : ななしのよっしん :2013/12/15(日) 16:20:21 ID: wj6jmoOpVi
ヒテリス動画でしばらく時間経ったのを見ると、定型文以外が増えてて
そのコメントもあまり面白くなかった
なんか討論してたり、芝はえてたりしてたってのもあるが
やっぱ様式美とかテンプレな流れはある程度必要だなと思ったよ

今、僕はどちらの気持ちもわかる。きれぼし脳にとっては「いまさら笑うようなものじゃない」バグで一般視聴者は笑う。芝を生やす者よりもテンプレ的なコメントをする者の方が「慣れている」「レベル高い」という構造があると思う。しかし、テンプレはやはり退屈だ。
「ヒテッマン」時代は新しい用語が次々に生まれていた。現在のバグコメは「ヒテッマン」時代のネタが大多数である。淀んでいる。かといって、いまさらヒテッマンリスペクト以外のチートバグ動画を見ようという気にはならない。

ブラック企業の「ブラック」は、絵の具の黒か、宇宙の黒か

「ブラック企業」は、人種差別用語である | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
こんな記事が話題になっていた。
これについては、アメリカで白人が「black」を否定的に使うのと、日本で日本人が「ブラック」を否定的に使うのとでは話が違うだろう、という見解なのだけれど。
有色人種を蔑む白人の思考は興味深い。「ワン・ドロップ・ルール」とかいうのがあった所を見ると、彼らは純粋性を重視しているんだろう。有色→濁ってる→ダメ、白い→清い→良い、という。
しかし、何もない宇宙空間は黒いわけで、黒こそが純粋であるという見方もできる。もっとも、黒人の黒は濁ってる方の黒だと思う。いや、蔑んでるんじゃなくて、黒人音楽は濁っててカッコイイと思う。
ブラック企業の「ブラック」はどっちの黒なんだろう。濁りの黒なのか、闇の黒なのか。語源はブラックリストらしいけど…どちらとも言えるような気がする。
左派が「ブラック企業」という語を用いるなら、「資本主義社会は基本的に闇の世界であり、労働者の助けとなるものは光であり、ブラック企業とは光の届かない場所である」というイメージで「ブラック」と呼ぶのがいいんじゃないかと思う。
逆に、保守派が「ブラック企業」という語を用いるなら、「ブラック企業とは不良であり、社会秩序を乱す異分子であり、清く正しく生きる者の敵である」というイメージで「ブラック」と呼ぶのがいいんじゃないかと思う。

「歴代」

はてなブックマーク - 首相コピペあいさつ、長崎も 被爆者からの批判に無言:朝日新聞デジタル

shimashimaco
コピペの癖に「不戦の誓い」「憲法の規定を遵守」は削除してるんだってね。そして批判にはだんまり。姑息な。ますます信用ならない人物だ。 2014/08/10

nisatta
憲法の規定遵守は削除」とか小田嶋のウソ(歴代首相が営々として踏襲云々)を信じるコメントに辟易。麻生、福田の演説調べろ。そもそも改憲自民党の公約だ。知っててデマ拡散してるなら「姑息」極まりない。 2014/08/10

rdetfhku
id:nisatta 小田嶋氏のその記述はウソじゃないですよ。麻生、福田じゃなくて小泉までの話です http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20140807/269785/?P=5 http://d.hatena.ne.jp/next49/20140807/p3 2014/08/10

以下省略


http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20140807/269785/?P=5

 昨年の演説において既にそうだったが、安倍さんが原爆記念式典において読み上げたスピーチ原稿には、これまで、歴代の内閣総理大臣が、営々として踏襲してきた文言のうちのいくつかがすっぽりと抜け落ちている。


 たとえば、「憲法」への言及が無い。
 これまで、広島の演説では、戦後の首相は、歴代、一貫して、憲法を遵守し、平和を守る旨の言葉を述べてきた。それが、「慣例」になっていた。

ここでの「歴代」は、「昨年以前(2012年まで)」と読めます。実際には、福田(2008年)と麻生(2009年)は踏襲しませんでした*1。よって正確ではありません。
次。

 安倍首相自身も、第一次内閣の時の演説(2007年8月6日)では、


《私は、犠牲者の御霊と広島市民の皆様の前で、広島、長崎の悲劇を再び繰り返してはならないとの決意をより一層強固なものとしました。今後とも、憲法の規定を遵守し、国際平和を誠実に希求し、非核三原則を堅持していくことを改めてお誓い申し上げます。》


 と、歴代の総理が言った通りの言葉をほとんどそのまま読み上げている。

ここでの「歴代」は、「2006年まで」と読めます*2。「2006年まで」も「2012年まで」も同様に「歴代」と表現されていることは注目に値します。たとえば、1944年だったら、戦後の「歴代」は存在しません。1944年と2007年では、決定的に「歴代」の意味が違います。
さて、2007年と2013年ではどうでしょうか。決定的に「歴代」の意味が違うでしょうか。小田嶋氏(1956年生まれ)はそう考えていないようです*3。nisatta氏はそう考えているようです。2008年8月6日、その時歴史が動いたのか。そうでもないのか。おそらく、ここで判断が分かれているのです。

*1:歴代首相の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式あいさつリンク - 発声練習

*2:僕の「小泉までの話」というコメントはこの部分に基づいたものです。今から思えば主観的です

*3:厳密には、「このコラムを書いた時点では」そう考えていなかった、です

面白さについて(雑文)

たまに、世の中に「面白い人」と「つまらない人」がいるかのように語る人がいますが、人生の中に面白いこととつまらないことがあるだけだと僕は思います。なぜなら、面白いかどうかは主観でしかないし、人間は多面的だからです。
面白さを客観的に決めようとすると、数字を取れるかどうかみたいな話になります。要するに視聴率至上主義です。あるいはアンケート至上主義(ジャンプ)です。それはそれで有効ですが、それだけでありとあらゆる面白さを網羅することはできません。
面白いかどうかは主観だけれど、マトモかどうかは客観です。「面白くない」は感情論もしくは感情表現ですが、「マトモじゃない」は論理的な批判たりえます。こことここが矛盾してるとか、ここの日本語がおかしいとか、この絵は物理的に不自然とか、あるいは「基本がなってない」とか。
作法に従うことは、面白くないことと紙一重です。面白いものが好きな人は、常に新しさを求めているからです。作法を知らないのは未熟ですが、作法を知った上で作法に従わないのはスタイルです。現代音楽とか全部そうです(多分)。
面白さについて考える上で、多様(性)という言葉は一つのキーワードです。なぜなら、人の趣味は多様だからです。プロの世界では、マトモじゃない表現は切り捨てられることが多いですが、ウェブにはマトモじゃない表現を自由に投下できます。よって、ウェブには良くも悪くも多様な表現があります*1
人の趣味は多様ですが、全ての人はホモ・サピエンスでしかありません。だからこそ、視聴率至上主義やアンケート至上主義が通用します。マスメディアにはマスメディアの役割があり、ウェブにはウェブの役割があります。当たり前ですが。

「草不可避」と「wwww」

「草生える」「草不可避」あるいは端的に「草」、こうした表現をウェブ上でしばしば見かけるようになったのは2012年からだったか。今ではもうすっかり俗な表現であり、なんとなく使っている人も多いだろうが(それこそ「wwww」と併用したり)、こうした表現を使い始めた連中が

「wwww」なんてみっともなくて書けない

などと思っていたことは想像に難くない。「草生える」と言いつつ実際には草を生やさないのだから、草を生やすことへの否定を含んでいたのは明らかだ。
「wwww」という表現には、バカ笑いのイメージがあると思う。笑いがだだ漏れしている感じ、とでもいうか。実際、キーボードの同じ部分を押し続けるだけでアウトプットできる原始的な表現である。
ところで、ニコニコ(動画、生放送)は「wwww」と相性がいい。あのUIは、推敲されたコメントではなく、脊髄反射的な感情、素早く打ち込めるテキストを要求する。2ちゃんねるなどでは演技的な「wwww」も多く見られる(スレタイでは草が生えてるのに本文では冷めてるとか)が、ニコニコの「wwww」は基本的にベタだと思っていい。
話は飛ぶが、ニコニコ動画の初期に「空耳」と「弾幕」が流行った。空耳はしばしば、音声を発した対象を揶揄する、バカにするものだ。動画の上にコメントを被せるデザインは上から目線と相性がいい。それに対して弾幕に参加することは、むしろ自分から積極的に弾ける、個を捨てる、思考停止する、バカになるものだ。
なおかつ、空耳にも「バカになる」要素(意味を排して感覚だけを残すという思考停止)があり、弾幕にも「バカにする」要素(コメントをぶちまけて対象を汚す)がある。「バカにする」と「バカになる」の間に壁がない、それがニコニコ動画の面白いところだと僕は思う。そして、両者を兼ね備えているのは「wwww」も同様である。
「人をバカにしていいのはバカでない者だけ」という思想からすれば、「wwww」は滅ぼすべき表現だろう。バカ笑いでありつつ嘲笑でもありうるのだから。また、「人をバカにしていいのは人からバカにされる覚悟のある者だけ」という思想からすれば、嘲笑としての「wwww」を「草不可避」などと言い換えてバカにされることを回避しようとする、そんな態度は唾棄すべきものだろう。
淫夢に言及しろ、とかいう苦情は受け付けません)

日本のネット文化史において重要だと僕が思う4つの崩壊

  1. Windows 95の登場で、ギークと非ギークの間の壁が崩壊した(パソコンがある程度カジュアルなものになった)
  2. 2ちゃんねるの登場で、ウェブのアンダーグラウンドとオーバーグラウンドの間の壁が崩壊した(それを象徴する出来事が西鉄バスジャック事件)*1
  3. YouTubeニコニコ動画の登場で、アニオタと非アニオタの間の壁が崩壊した(深夜アニメがある程度カジュアルなものになった)*2
  4. Twitterスマートフォンの登場で、パソコン文化圏とケータイ文化圏*3の間の壁が崩壊した(その結果として起こっている摩擦が「バカッター」であり「地獄インターネット」ではないかと思う)*4

僕がこれらを重要だと思うのは、単に僕自身がこれらの出来事(4以外)に大きな影響を受けたからかもしれない。僕はWindows 95からパソコンを使い始めた。2ちゃんねるネットウォッチャーの存在を知った。ニコニコ動画の影響でオタク的(コミケ的)なものに対する抵抗が小さくなった。そんなこんなで、気づけば「濃い側」(パソコン文化圏)にいる。

*1:電車男やまとめブログはこれをさらに進めたものである

*2:違法動画がカジュアルなものになったという点では、2をさらに進めたものである

*3:「ケータイ文化圏」で検索すると「ネット文化圏」という言葉が対立概念として出てくるが同じ

*4:Twitterの混沌についてはこちらの記事が興味深い http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20140110/258059/

「叛逆の物語」を見て「ウゥゥゥウウロブチィィイイイ!!!」と叫ぶのは早とちりだと思う(ネタバレ)

https://twitter.com/ricca5/statuses/395146486490484736
https://twitter.com/Kazmachyov/statuses/394000548451471361
どちらもめちゃめちゃリツイートされている。でも、違和感が。

もともと、甘ったるそうな魔法少女アニメなのに展開がシビアであるということで、意地の悪さからネタ的に話題になったTVアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」だが(アニメファンではなくネットユーザーとしての見方)、その結末は案外素直なものだった。では甘かったのかといえば、そんなことはない。
まどかが、既定の制度(魔法少女システム)とSF的な力(因果の量が云々)を使って既定のルール(魔女化)を無効にする。そして、もっと上位のルール(条理にそぐわない希望は云々)が働いて魔獣システムが生じる。大筋において奇跡は起こらない。
が、最後にボーナス的な奇跡が起こる。ほむらの記憶とまどかのリボン。「叛逆の物語」ではこの奇跡が前提になっている。
そんな「叛逆の物語」の結末は、なんか死にかけのほむらが愛の力(?)で円環の理とまどかを分離してまどかを人間として復活させ、自分自身も「悪魔」として復活し、結果的にさやか他も復活するというもの。なにこれ。まあ、まどかはいきなり概念に戻ろうとしていたけど。
ぜひ続編をやってほしい。ほむらの強引なやり方のせいで醜く歪んでしまった世界を見たい。そしてまどかに歪みを正しく正してほしい。それでこそまどか☆マギカだと思います(TVシリーズ厨として)。